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双子パパの脱サラ日記〜子供との時間を大切にして生きる実証実験〜

テレビ一筋だった40歳。扶養や住宅ローンを抱える中とりあえず脱サラ。このブログでは、赤字生活で始まる無鉄砲な脱サラから事業成功までの過程を包み隠さずリアルタイムでお伝えします。当面の着地点は「好きな時に好きな場所に旅。家族みんなで。時に一人で」。

✅キリスト教徒でないからこそ聖書で世界観が変わる

本を禁止していた。

忙しかったし

何より本を買う金がなかった。

 

本ほど人生に必要なものもないと思うが

それでも本が買えなかった。

 

本読んで概念を増やしていく前に

動画の腕を上げねばならなかった。

 

グゥの音も言わせぬほどの高い品質の動画を

より短時間で作りたかった。

 

そのためには

もっとカメラの腕を上げ

プレミアプロももっと習熟せねばならなかった。

 

さらにAFを身につけねばならなかった。

 

ただ、AFをやればやるほど

きらびやかに見せるのもいいが

映像の根本を掴みたいと思った。

 

コンポン。

根本。

 

調べると映像の根本を掴むためには

アメリカの映画を勉強せねばならないことがわかった。

 

アメリカの映画を学ぶには

新約聖書旧約聖書ギリシア神話イソップ物語を学ぶ必要があることがわかった。

 

特に新約聖書、及び新約聖書のいち画面を切り取ってきた西洋絵画。

 

テレビ局に12年いたが

誰もそんなことを教えてくれなかった。

 

みんなそんなことを考えたことがないのかもしれない。

(局内にもキリスト教の人は絶対にいるはずである。あるいは僕のことを反宗教的・もしくは宗教的すぎるので「福音には近づけないほうがいい」と思われていたのかも知れない)

 

聖書を知れば知るほど

聖書を知らずにこの世界に生きている恐ろしさを感じた。

 

無知さが恐ろしいのだ。

算数を知らずに育ったような心持ちだ。

 

いわゆる「欧米」に加え

ロシアという広大な場所がキリスト教だということを知っている。

 

カトリックプロテスタントロシア正教なんていうふうに

会派が分かれていることを知識と知っている。

 

知っているのにキリスト教がいかに生活に密着しているか

実感としてわからない。

 

「わからないな〜」と自覚しながら40年生きてきた。

 

生きてきたが

実際、聖書を手に取ってみると

「これだけ分かっていなかったのか‼︎」と愕然とする。

 

実際、聖書を手に取ってみると

おそらくは「神の教え」に近づくために

どれだけたくさんの人が製作活動に打ち込んできたかが

実感できた。

 

サラリーマンのときよく観ていた映画

ショーシャンクの空に

もまさにずばり聖書が起点になりストーリーが展開され

聖書で完結する。

 

大好きな映画さえも「聖書の部分は実感わかないな〜、わからないな〜」と思っていたけど

なんてことはない。

 

実際手にとって読めば済むことであった。

 

聖書を意識して

聖書を題材にした西洋絵画を勉強して

映画を意識するようになってから

発見の連続であった。

 

最大の発見は

自分の動画の欠点がわかったこと。

 

それは

「オリジナリティを求めすぎ」であることがわかった。

 

それが、聖書を意識するようになってわかった。

 

稀代の芸術家さえも「聖書」を土台にして

「聖書」という範囲内から逸脱しない範囲で製作している。

 

その稀代の芸術家を参考に映画などが創られている。

 

「世界の黒澤」でさえもそうであった。

 

というか、おそらく黒澤明監督も

ロシア文学に傾倒しレオナルドダビンチやミケランジェロに惚れたという10代の経験があったからこそ

世界的(キリスト文明の欧米)に評価され「世界の黒澤」になり得たのかも知れない。

 

「世界の黒澤」の偉大さはおそらく

西洋人的キリスト文化と日本の歴史を融合させたことにあった。

 

世界の黒澤さえも

過去の名作ーキリスト文化に強い影響を受けた名作ーを土台に創作したのだ。

 

自分は、一介のローカル局出身の動画屋である。

 

田舎の動画屋が

オリジナリティを求めすぎるのは何か間違っている。

それこそ「田舎くさい」感じになってしまう。

 

どうしたらいいのか?

 

先人が見つけてきた「美意識」

--おそらくは「黄金比」と関わりがあると思うのだけど--

先人がたどり着いた「美意識」をお借りしない手はないのである。

 

文章でそれを意識するのに

なぜ映像でそのことに気づかずにきたのか?

 

子どもの頃に絵画教育がなされていない、ということだと思う。

日本の社会全体にその傾向がある。

 

そのことに気がついてから

仕事が一気に楽になった。

 

「このお客さんはどの映像の美意識を求めているのか?」

 

そこを見極め

その美意識、つまりは過去映像に近づけていくのが僕の仕事になる。

 

いろんなパターンに適用していくわけだ。

「っぽい映像」である。

 

そのパターンを言語化でき

映像イメージを共有できれば

仕事はいっきに片付く。

 

「っぽい映像」とは言わせない「深み」を付け加えるのが僕の仕事になる。

それはやっぱり15年もがき続けたので、やれる。

 

学ぶことに終わりはないが

学べば学ぶほど自分がメキメキと力をつけていくのがわかった。

 

メキメキ。

 

なんとか2021年という年も終わることになり

大きい仕事も納めた。

 

仕事を納めた(厳密にいうとけっこう残っているが)自分が何をするのか?

と観察していると

久しぶりに本屋に通っている。

 

久しぶりの本屋は衝撃だった。

 

「これが本として成り立つのか⁉︎」

 

読む本が変わった。

聖書で世界を透かしてみることで

本を読む能力が変わっていた。

 

備忘録

もっと寝たい。でも寝ることを脳みそが阻む。

 

というのも頭の中に次々と言葉というか文章が湧き上がってくる。

脳みそが飽和状態が続く。(飽和という理科の概念は素晴らしい)

その文章を言語化することで湧き出てくる思考に「いるべき場所を与える」ことができる。

脳みそが少し満足する。

 

書くとは脳みその満足のためでしかない。

 

ただ、書いた文章は文章自体に

魂が宿るのかなんなのか

「読み直しくれ‼️」と訴えてくる。

 

僕が苦痛なく読むためにはリズムが必要になる。

おそらく読みやすいのは、五七五のリズム。

 

おそらく無意識で僕はそういう書き方を目指している。

(僕の文章を見直して文字を数えないでほしい。あくまで「いかに日本語をリズムよく連ねるか?」という話)

 

五七五のリズムで

長文をわかりやすく書く。

 

その上で

生きる悩みを数学や理科の概念を使って言語化

笑いに変えることで昇華する。

小説化する。

 

これが僕の目指しているところなんだろう。

 

五七五の長文化を

テンプレートにして一般化する。

そのリズムに合わせナレーション原稿を書き

映像編集する。

その手法を販売する。

 

ああそうか。

僕が求めいるのはここなのか。

 

我が脳みそさん、これできょうの僕の作用は終わりでいいね?

既に僕はキャパオーバーです。

 

毎日がキャパオーバーの2021年。

 

キャパオーバーといえば

日本の電力も僕の脳みそなみにキャパオーバーの気がする。

 

それでもイルミネーションなんてやっているらしいので

明日は双子を連れ行こうかな。

 

備忘録URL

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