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双子パパの脱サラ日記〜子供との時間を大切にして生きる実証実験〜

テレビ一筋だった39歳。扶養や住宅ローンを抱える中とりあえず脱サラ。このブログでは、赤字生活で始まる無鉄砲な脱サラから事業成功までの過程を包み隠さずリアルタイムでお伝えします。当面の着地点は「好きな時に好きな場所に旅。家族みんなで。時に一人で」。

【自分的に保存版】✅「持っているもので勝負する」覚悟と「開拓する」覚悟

来月6日に人生初の国家試験を受ける僕は

今月仕事を入れいてない。

 

勉強に専念するためだ。

 

僕は勉強が苦手なのである。

専念しないとできない。

 

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試験勉強

「国内旅行実務取扱管理者」という資格なのだけど

いまだに名前を覚えられない。

そんなレベルだ。

 

資格試験は大きく3つに分かれる。

  • 旅行業法及び命令
  • 約款
  • 国内旅行実務

 

きのうときょうの2日間は

  • 国内旅行実務

のうちの

「JR」部分。

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僕は、国内旅行には全く興味がなかったし

国内移動は

もっぱら「青春18切符」という鈍行や

ヒッチハイク、夜行バスだった。

 

新幹線が全くわからない。

 

しかも、

勉強している本が3年前に買ったので

北海道新幹線」も「北陸新幹線」も載っていない。

 

一から勉強だ。

 

 

といっても日本国内なので

乗ったことがある新幹線や

行ったことがある駅があるのはある。

 

必死で思い出す。

(18切符で熊本駅まで行った)

 

 

自分の体験と結びつけると覚えやすい。

 

東海道新幹線

 

乗ったことがある。

 

確か、10分とか20分置きに出ていたのに

驚いた。

 

何せ山形新幹線

1時間に1本だ。

 

東海道新幹線

山形新幹線に比べ

車両も広ければ座席も広く

ピシッとしたビジネスマンだらけで

全体的に高級感があった。

 

山形新幹線が連結する

東北新幹線に乗った時もそうだった。

 

同じ東北に行くにせよ

仙台に行く新幹線は

山形新幹線よりもずっと立派だった。

 

国家が力を入れているのは太平洋側。

強く感じる瞬間だった。

 

木綿のハンカチーフ

学生の時

椎名林檎が「木綿のハンカチーフ」を歌った。

 

田舎から都会に出た若者と、

地元で待ち焦がれる女性のすれ違いを歌った曲だ。

 

この曲では

上京する様子を

「東に向かう列車」と表現した。

 

東?

 

なぜ東?

 

ああそうか。

 

僕らにとって上京は「南」だけど

多くの日本人にとって東京は「東」にあるのか。

 

上京は東なのか。

 

不本意で地元の山形大学に進学した者には

強く印象に残る表現だった。

 

中国語

この曲を聞いた当時、

僕は学生だった。

 

大学で東北を脱出することが叶わなかった僕は

この曲を聴いていた当時

ひたすら中国語を勉強していた。

 

文学部卒では

ろくな就職先がないことを知った僕は

外国語を身に付けることにしたのだ。

 

もちろん最初は

英語圏を志した。

 

でも

最低でも年間200万円必要なことがわかった。

 

アメリカ、イギリスはもっと高額。

 

東北の民のせいか

オーストラリアの太陽にすごく憧れたけど

それでもハードルが高い。

 

といっても

カナダもニュージーランドにも手が届かなかった。

 

フィリピンやインドという

裏技があるにはあった。

 

でも、僕は

住んで勉強することにこだわった。

 

彼らの民族性そのものを体得する

ということにこだわった。

 

何語であれ

ネイティブと話したかった。

 

英語圏にはいけない以上

もはや外国ならどこでも良かった。

 

当時行ったことがある外国

中国、ベトナムニュージーランド、ロシア、

の中で

中国がダントツで面白かった。

 

そして僕は

中国語を選んだ。

 

勉強

高校のころ必死で勉強したのが世界史だった。

 

「世界史」ほど

学ぶことに意味のある教科はないと感じた。

 

ただ、

地球の「世界史」とは

戦争の歴史を学ぶことにほぼ等しかった。

 

アングロサクソンの支配の歴史を

学ぶことにほぼ等しかった。

 

世界はアングロサクソンを中心に回ってきた。

 

だからか

大学で学べる言語も

アングロサクソンの言葉が多かった。

 

英語、ドイツ語、フランス語…

 

世界はアングロサクソンが牛耳っている。

 

世界史を学ぶと言うことは

そうした視点を得ることだった。

 

ただ、時代は

アングロサクソン中心から

極東に変わってきていた。

 

東西ドイツが統一され

事実上の20世紀が終わりを告げた。

 

21世期が始まり

世界は方向性を探していた。

 

アメリカの相対的なポジションが

弱くなっていた。

 

中国の時代は

もはや確実になっていた。

 

僕は

覇権国家アメリカの言語はさておき

中国語を学ぶことにした。

 

毎日大学の図書館に通った。

 

大学の図書館に個室があった。

僕はそこを一人で占有し

ヘッドホンをして

中国語の進出単語を

リピートしながら聞いた。

 

単語を何度も書いて

声に出した。

 

気に入った長文を諳んじては

大学で出くわした中国人に披露して見せた。

 

バイトを掛け持ちし

詰め込めるだけ詰め込んで

お金を貯めた。

 

大学に2年間休む旨の休学届を出し

中国に留学した。

 

留学で

外国に住むと

大きく2つのパターンに大別できるらしい。

僕が尊敬する作家、野村進さんの分析だ。

 

  • 日本人であることを強く自覚するタイプ
  • 日本人であることを全くせず現地に溶け込むタイプ

 

僕は、自分は後者であろうと思っていた。

中学でも高校でも、大学でも

家族の中でさえ

周りに全く馴染むことなく生きてきたからだ。

 

でも、実際は前者だった。

「僕は日本人」。

むしろ強く自覚するタイプのようだった。

 

日本人だから

自覚すればするほど

中国人の好きになれない部分が気になった。

 

どこにでもタンを吐いたり

ゴミを捨てたりする姿を見るたびに

いやな気持ちになった。

 

一方で

交渉の上手さに舌を巻いた。

 

当時の中国では

何をするにも交渉が必要で

交渉下手の東北人には

タフな場所だった。

 

留学したばかりの頃は

いろんな中国人が親身に面倒を見てくれた。

 

しかし、

言葉を流暢に話せれば話せるようになるほど

中国人は僕を対等な立場で見るようになった。

 

何をするにも

ギブアンドテイクだった。

 

初めの頃面倒を見てくれた中国人も

何かにつけ

僕を利用するようになった。

 

そうでなくても

油断すればつけこまれるのが中国だ。

 

常に交渉が求められた。

 

交渉だらけの中国の生活に

すっかり疲れてしまった。

 

 

 

中国に骨を埋めるつもりで留学した。

 

中国人の身振り手振りや

初対面のときの態度なんかも研究した。

 

ちょっとぐらい話しても

日本人とはバレないところまでいった。

 

「日本人だ」

というと

「嘘つけ」

と言われるまでになった。

 

そこまでたどり着いて

ようやくわかったこと。

 

 

僕は、

中国社会ではとてもやっていけない、

ということ。

 

おまけに

留学先にいた日本人との関係を築くのにも疲れてしまっていた。

 

東北出身は僕だけだった。

 

外国に行くとやけに関西人に会うけど

留学先でもほぼそうだった。

 

東京で働いた時も強く感じたけど

僕はどう足しても引いても

山形生まれの山形育ち、という過去を変えることはできなかった。

 

少なくない関東の人に

東北を見下すような視線があることに

気づかないわけにいかなかった。

 

他の人と付き合う時間が増えるにつれ

自分が山形人であることを自覚しないわけにいかなかった。

 

皮肉なことだった。

 

「大学に入るタイミングで東北を出る」ことは叶わなかった。

 

でも、休学して中国に行くことで

東北からも日本からも出ることができた。

 

その結果、

「自分は日本人、山形人だ」と強く認識するに至った。

 

今となって分かるのは

「持っているもので勝負する」以外に方法がない、ということ。

 

 

就職活動

日本に戻ると

すぐに就職活動が始まった。

 

大学3年と4年の間に休学したのが愚行だった。

 

大学生活は永遠に続くと勘違いしていたので

残り1年となって慌てて休学した感は否めない。

 

どこに就職するのか?

 

旅行業に興味があったけど

記者にもなりたかった。

 

僕は記者を選んだ。

 

しかし

1年半日本にいなかったこともあり

時事問題が全くわからない。

 

ペンと紙だけど事足りる新聞記者が良かったのだけど

拾ってくれたのは地元のテレビ局だけだった。

 

別に、

テレビは好きでも何でもなかったのだけど。

 

そうして僕は

「中国語が得意な映像作家」になった。

 

今となっては

中国が好きなわけでも

映像が好きなわけでもない。

 

このまま人生が終わっちゃうのはもったいないなぁと思い

思い切って会社を辞めてみた。

 

そこでわかったのは

「開拓する」覚悟が必要だということだった。