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双子パパの脱サラ日記〜子供との時間を大切にして生きる実証実験〜

テレビ一筋だった39歳。扶養や住宅ローンを抱える中とりあえず脱サラ。このブログでは、赤字生活で始まる無鉄砲な脱サラから事業成功までの過程を包み隠さずリアルタイムでお伝えします。当面の着地点は「好きな時に好きな場所に旅。家族みんなで。時に一人で」。

✅保存版〜謝る勇気があなたにはあるか?〜

日本人の特徴に「謝る」

という文化がある。

 

一方、

同じアジアでも

中国・半島人は謝らない

 

4人兄弟の3番目で育ち「謝り続け」

 絶対に「謝らない」中国人妻をめとった僕が

「謝る」という行為を

分析してみる。

 

 

相談

営業職の友人から相談があった。

 

「アポをすっぽかしてしまった。

 これから謝りに行くのだが

 謝るコツを教えてほしい」

 

 

よく聞くと

謝ることが2つあるという。

  • アポを忘れていた
  • 担当変えがあったばかりだが、引き継ぎが不十分だった

そのお客は

「引き継ぎ不十分」についても

怒っているらしい。

 

これは、

「すぐに解決できる」と思った。

 

お客が怒る理由が

筋の通ったものだし、

謝罪に行くことを受け入れているからだ。

 

「謝罪を受け入れる」ということは

お客は

「あなたの会社に任せたいのです」

と言っているようなものだ。

 

回答

僕の回答は

  • まずきちんと過ちを認め、自分の過ちを言葉で説明すること
  • 目を合わせず、伏せ目がちでいること
  • 相手の怒りをただひたすら聞いて受け入れること

この3点だった。

 

過ちを認めることで

「信用に足る人間」であることを訴える。

 

すると相手に

「人間誰にでもミスはある」

と思ってもらえる。

 

単に客は

「私はあなたを信用していたのに裏切った。どうしてくれるのか?」

と言っているわけである。

 

それに対し

「済まなかった」

と言える度量が、謝る側にあるかどうか、に尽きる。

 

「謝れる」人間は

「自分の過ち」を受け入れることができる器、

ということだと思う。

 

器。

 

謝れる器。

 

僕が思うに

「自分の過ち」を受け入れることができる器、

を持った人の方が

少数派だ。

 

謝れる人が少数派。

 

「自分の過ち」を発見し受け入れることができるだけで

結果的に成長が早くなり

この社会では優位に立つことができる。

 

相談してきた人は

「相談する」だけの器があるし、

やっぱり無事解決したという。

 

僕が予想した通り

「他の仕事」も

もらってきたそうだ。

 

「謝る」という文化は

日本が特に大事にしているように感じる。

 

中国人、韓国人は謝らない、という。

欧米人にもすぐ謝る日本人は奇異に見えるらしい。

 

実際「謝る」という行為は

  • 自分の非を認める

という行為があってその次に

  • 謝罪する

ということになる。

 

2段階構成だ。

 

少なくとも中国人は

  • 自分の非を認める

という行為自体、

メッタにしない。

 

「非は認めないけど、反論はしない」

「非は認めないけど、贈り物をする」

ということで、

ウヤムヤにするようだ。

 

怒った方

「相手は反論をやめた=非を認めた」

となり

謝るべき方

「相手ももう何も言ってこなくなった=解決」

ということになる。

 

お互いのメンツは保たれ、関係は維持される。

(中国では簡単に謝ってはいけいない。つけこまれる)

 

でも日本人はそうはいかない。

  • 非を認める
  • 謝る

という行為を

セットで脅迫される。

 

我々は小さい頃から

親に

「謝りなさい‼️」

と脅迫されながら育つ。

 

「謝るまで家に入れない‼️」

「『ごめんなさい』を言えない子はうちの子じゃない‼️」

 

こうして

「謝罪」を良しとする社会は

再生産され続ける。

 

テレビ画面では

定期的に

「ごめんなさい(大量のシャッター音)」の映像が流れる。

 

僕らはなぜ

こんなにも謝り続け

謝ることを求めるのか?

 

なぜ

子供に謝罪を仕込むのか?

 

なぜ

自己肯定感を否定するような社会を

維持しているのか?

 

 

結論

僕の結論はこうだ。

語弊を覚悟でいう。

 

日本は

社会>個人

だ。

そして

会社>個人

だ。

 

「謝る」を強要する親は

社会>自分

なのだと思う。

 

だから

社会>自分の子供

ということになる。

 

そこには

女性不利社会で生きるしかない

母親のコンプレックスや

雇用される父親の不安が生む支配欲が見え隠れする。

 

こうした環境下で教育された「謝罪」は

本当の「謝罪」じゃない、

と思う。

 

僕は

個人>社会

でありたいと願う。

 

双子にも

個人>社会

であってほしいと願う。

 

それは

そばにいる個々人を尊重する、ということに

他ならない。

 

そう考えれば

「謝る」という局面そのものが

生まれないことになる。

 

そう考えて経営し

社員を雇えば

引き継ぎ漏れ(そもそも引き継ぎするつもりなく退社)

「謝る」ミスは発生しにくい会社になるはず。

 

そう考えば

「謝る」勇気が生まれてくる。

 

最後の最後に

「論理の飛躍」が起きるけど

「日本の文化」を差し引いて考えた時

(つまり親のコンプレックスからくる過度な「教育」を差し引いた時)

本当の意味での「謝る」という行為が見えてくる。

 

結局

「謝る」という行為は

「自分の不徳」を「天に告白する」という行為に思える。

 

(「情けは人のためならず」というコトワザはとても科学的だと思うのだけど、これを説明すると長いので、今回は「天」という考えを借用します)

 

そう思うと

「謝る」べきときに謝れる勇気が生まれるんだと思う。

 

題に「保存版」が入っているのは

個人的に、特に見返したいだけです。

 

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