20代の頃はとても充実していた。
撮影の技術や編集スピードが上がっていくのがわかった。
成長する「メキメキ」という音が聞こえてきそうだった。
「今の自分」と「3カ月前の自分」とでは全くの別人だった。
5年も経つと、成長のスピードは落ちていったし、
むしろ、油断すると、撮影の技術は落ちてしまう。
30歳を過ぎると、自分のピークのようなものが終わっていると感じるようになった。
加えて、取材も「何度か取材したことあるな」というものが増え、新鮮味もなくなっていた。
それでも、やりがいや自信の成長を感じられることはあった。
例えば、「特集」を仕掛けると、きちんと数字が反応してくれた。
この仕事を始めた当初は「数字は落とさなければ御の字」と言われた。
でも、そんな理屈がおかしいのは明らかだった。
ローカルメディアにありがちな「視聴者・読者不在」の論法だ。
民放テレビの客は「視聴者」だ。
少なくとも、報道制作の現場の人間にとっての客は、スポンサーじゃない
いかに「視聴者」が求める情報を出していくのか。
知りたがっていること、関心があること、無意識に求めている情報を。
媚びるのではなく、伝える側がきちんと情報を咀嚼して提供できるか?
もちろん、簡単なことじゃない。
常に視聴者を意識していないと、できることではない。
でも、やろうとし続けない限り、やれないことだ。
こんなふうに悶絶しながら、特集を作り続けていくうちに、
次第に「視聴者が反応する情報」が見えてきた。
「もっと知りたい情報」「提供すべき情報」を出せれば、視聴者は評価してくれた。
そこにやりがいはあった。
でも。
でも。
数をこなしていくうちに、だんだん虚しさばかりが募っていった。
「視聴率をとる」ということは簡単なことではなかった。
やりがいはあったけど、楽しくはなかった。
・ ネタをさがし
・社内で企画を通し
・取材相手に趣旨を説明して了解を取り
・アポを取って
・社内で日程を調整して
・取材に行き
・原稿を書いて
・編集をして
・テロップを発注して
・BGMをつけて
・最終の編集をして
という工程を1人でやるのは、僕にはとても大変なことだった。
苦労せずにVTRを仕上げることはできたが、「視聴率が上がるVTR」となると、苦悶しながら全力で仕上げる必要があった。
でも。
でも。
たとえ視聴率が上がったとしても、それだけだった。
NHKと先発局には大きく水をあけられたままだった。
特集で数字が跳ね上がり、番組が時間帯1位を取ったとしても、それだけだった。
社内評価が上がるわけでもなかった(仕事内容よりも、人間関係を円滑することこそが求められた)。
こうした状況を繰り返さなければ、「視聴者に支持されるテレビ局」にはなれないし、それは僕と現場数人が頑張ったところで、どうにもならないことだった。
でも、僕1人ではどうしようもなかった。
「視聴者に支持されるテレビ局」は、会社全体で取り組むことだった。
僕には、徒労感だけが残されていった。
家に帰れば、双子が待っていた。
双子は本当にかわいくて仕方がなかったが、子育てが僕を疲弊させているのもまた事実だった。
記者業をしながら、外国人の妻と双子を育てるのは、僕にはとても難しいことだった。
休みは子育てに充てるため、自分が休む時間はほとんど皆無となった。
僕は、どんどんと追い詰められていった。
後日談
2019年7月25日
落ち着いて考えれば、辞めた理由はもっと単純だ。
・今後、この会社で働きたいと思う仕事がなくなったこと
・経営方針に強い疑問を感じるようになったこと
・その割に家族との時間をうまく調整できないこと
・旅行に行けないこと
今読み返すと、当時はほぼノイローゼのようだったんだなぁ、と思う。